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ソウルレポート その3
〜日韓共同ゼミの事後レポートの為の執筆〜

 一般的に人が言語を習得する過程を省察してみると解るように、我々の発話行為は、元々セリフの復唱、モノマネだと言ってみることができる。その場、状況に対応して、おおよそカテゴライズされてある「ふさわしいセリフ群」の中から、適切なものを選び取るのである。それはほとんど反射的ですらあって、選択した過程に気付きもせず、ついつい呟いてしまっている、というふうに。
発話に限らずとも、頭の中に現れる言葉―内なる声―つまり思考も、(社会性の点などで発話との違いは大きくあるが)同じような影響下にある。
 言語表現とはそのような地平にあり、芸術表現も決して例外ではない。
 

人は他者との共通点を見つけては安心したり親しみを感じたりするものだが、一方では他者から自分を分け隔てる差異、独自性にもこだわる。とりわけ他者との差異が問われる場(自分が多なる他から選び出されることを欲する時など)においてはそうである。
誰しも、そのような己の独自性を期待した表現が、(己の所有物であるかのように懐に馴染ませているものが)、「凡庸な」という(いささか蔑んだ)形容詞に吸着してしまう全体性へと還元されてゆくのに気付くと、あまり好い気はしないものである。
(「私のもの」が全体へと「還元される」というよりは、初めから私独自のものではなかった。それを私独自のものと錯覚し、まんまと口させられてしまったというふうな、―屈辱と呼ぶほどには取るに足らない―無様さによる気まずさである。)

使い回しの「紋切り型」の表現をあたかも特別な自分の表現だと思い込む錯覚。その錯覚に気付かぬ者が繰り広げる傲慢な饒舌や、セリフの熱演を傍目に聞くと、空々しさが、時として苛立ちが、うんざりした疲れがやってくるものだ。
 とは言え、そのような失態を回避しようとする努力も―どもったり、失語したり―あまり晴れやかとは言い難い。(かの錯覚者に愚痴をこぼさずに何か気の利いたことさえ言えぬのだろうか。)
 しかしここでことさらに嘆く必要はない。もとより完全に独自の言語などないし、日頃我々が称賛する独自性とはその範囲でのことなのだから。
(無邪気でいられるのが望ましいのかもしれない。)

問題とされるのは、各人が気付く範囲での差異であり、当人がその都度どんな表現に落ち着くか(居心地良く腰をおろせるか)である。
 もしも、人の心とか、精神とか、魂といったものを、その人の持っている(思考に訪れる)言葉( 認識や、 気分を―あの手に負い難い気分、〈名を拒むもの〉を ―、叙述しようと寄り集まってくる言葉たち )に相似であると見るならば、表現に対する反応は、そうした言葉にそぐうものかどうかが重要なのではないだろうか。
 
 その点、我々がこの度見た演劇(ミュージカル)は、韓国語がほとんどわからない私は、セリフにおいては何とも判別しかねるものであった。門戸を閉ざされた城のお堀周りをうろつく程度に、口にできるのはせいぜい噂か、周辺の取るに足らないあれやこれや― 統率命令に聴く耳を持たぬ部品たち。歯のない歯車−についての勝手気ままなお喋り(雑感)である。
 ( 俳優の顔が好みかそうでないかとか、お笑い芸人の誰それに似ているとか、セットの出来具合とか、ここは空調が効き過ぎているとか、暗転のうちに眠りを稼ごうとか、「ウェルテルシ」が「ウェルテル氏」と言っているように聞こえてちょっと笑える〔ふつう口語の呼びかけで「氏」とは使わないので、場面が深刻な分おかしい〕とか)
 したがって具体的な作品の批評には口をつぐもう。

 しかし、演劇の完成度と大衆性といった話題で、( 芸術的完成度の高さ、質の良さを、大衆性、商業主義と対置する二分法的見方は、これも昔から口にされ続けている「紋切り型」の「議論セリフ」であるが ) さしあたってこれに言及してみるならば、どちらが高いか低いかの競争はさておいて、こうした二分法を支持する要素(差異)があるのも事実である。
 細やかな(心の、魂の、)言葉の襞にそぐうことを期待するならば、そのような細かさに頓着しないものが織り上げた作品は、とうてい満足には馴染まないだろう。絹に包まれるのを望む者に、大は小を兼ねるといった手荒さで、大雑把な投網をかけるようなものだ。
えてして大衆受けするものが、傾向としてわかり易い構成を用いるのは否めない。わかり易さとは、細かな差異を塗りつぶして均したという点で、平板であり、ありふれて厚かましい。差異を知る者にとって、その差異を取り除かれた簡易化は、同じ主題の変奏ではなく、もはや置換しがたい異質のものである。

これらは好みの問題であり、こだわりの問題である。

私はそろそろ自分のこの言語活動に疲れてきたのでこのあたりで終わりにしようと思う。
形容詞とは企みを腹に持つフィクションである。その企みに走らされる。すぐに「誤解」に吸着してしまう言葉を手なずけようとするのは、疲れるものだ。

 最後に、『若きウェルテルの悩み』にちなんで付け加えると、それに触れたロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』という本は面白いので是非読んでみてください。その前書きにこう書かれてある。 「狂気なのは統辞である。」

(一般参加者 飯森良平)

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